ぴっぴの防災ブログ

私はだいじょうぶ!防災意識の風化からの悲劇 田老の防潮堤からの提言

2015年5月14日

4月末、岩手県宮古市田老町に行ってきました。

みなさんは“田老の防潮堤”をご存知でしょうか?
三陸のリアス式海岸にある田老町には古来から幾度となく津波が押し寄せ、大きな犠牲がありました。そこで、1933年の昭和三陸津波を機に24年以上もかけて作られたのが国内最大級の防潮堤です。総延長2433mのX字型の巨大な防潮堤で、世界各国から視察に来るほどのものでした。
それが、2011年の東日本大震災の津波で一瞬にして500メートルに渡って崩壊してしまったのです。そしてまたしても数百人の命が奪われました。
防災教育にも優れ、防災のまちと自負していた町が、なぜ悲劇を生んだのか、実際に見て確かめたくて足を運びました。

田老町は海からは入り江となっており、波を防ぐためにぐるりと第1、第2、第3防潮堤があります。そして、防潮堤の内側には震災以前はあったと言われる住宅や商店街の跡地、現在は平らな何もない土地が広がり、その山手に近い側に難を逃れた住宅地や三陸鉄道がありました。

田老の悲劇1

現地では宮古観光文化交流協会の震災ボランティアの方が多くを語ってくれました。
中でも印象的だったのは以下のような話でした。

3.11の震災以前は、この防潮堤に囲まれ、海が見えない町でした。しかし、先に書いたように住民は年に1回は防災訓練を行い、町の区画も隅きりと言って角が見え、真っ直ぐ逃げられるよう見通しの良い碁盤の目になっていました。
また、高台に続く各所には避難道が作られ、高齢者に配慮して手すりもつけられており、防災を充分に意識した町の造りとなっていたのでした。
3.11より少し前に地震が起きたときも、例えば、保育園では子どもたちの避難はつつがなく行われ、防災教育は徹底されていたのでした。
ところが、3.11当日、これまでにもない大地震にもかかわらず、少し前に起きた地震で被害もほとんどなかったし、防潮堤があるから大丈夫という意識が一般住民たちの心の中に油断としてあったのではないでしょうか。
まずは、高台に逃げた人々が多かったようです。
ところが、津波の第1波が来るまでに40分という時間があったため、一旦避難したものの
「洗濯物干したままだった」「ガス消したか、どうだったか?」
「お財布忘れてきた」
「おばあちゃんの様子を見に行かなくては」
と戻ってしまったのです。そのため犠牲が増えたと言われます。
津波は防潮堤を乗り越え山際に近い三陸鉄道に行くまでにほんの7秒しかかかりませんでした。

田老の悲劇2

一方、町の中学校では、避難してきた住民とともに中学生たちは裏山に逃げたのだそうです。春と言えども寒い地方です。足場が悪く滑るのですが、中学生たちは、保育園から避難してきた乳幼児たちをバケツリレーのごとく手渡しで運びあげ、男子生徒は高齢者を背負い、女子生徒は背負えない分、お尻を後ろから押しあげて登り、みんなで逃げ切ったのだそうです。

なぜ、このように優れた “防災の町”でも悲劇が起ったのでしょうか?
観光ボランティアの方は、住民たちは防災意識はあるものの、先人たちから言い伝えられてきたことをどこかで風化させてしまっていたのではないかと、体験を伝承し忘れ去ってはならないと語ってくれました。

さらにここに来られる方々に伝えたいことは、
1.   専門家の言葉を鵜呑みにしない
2.   多数派同調バイアスに陥らない
(みんなが逃げないから逃げなくてもよいのではないか)
3.  正常性バイアスに陥らない
(異常事態なのにまだだいじょうぶとスイッチが入らない)
と。
観光ボランティアの方も現地の方でしたので友人たちを失くし、また、この地で震災に遭った子どもたちは親を目の前で津波にさらわれ失くすなど大きな心の傷を負ったのだとも話してくれました。

田老の悲劇3

浜松市も現在、天竜川西岸から浜名湖今切口東岸までおよそ17.5キロメートル区間において第4次地震被害想定の前提となる津波高を上回る高さの防潮堤を造成しています。
しかし、これができたから万事、安心という意識は消し去った方が良いと言えるでしょう。
震災ボランティアの方に言われた上記の1.2.3を災害時の対応として常々、心掛けておくことは大切なのだと強く感じました。体験者の生の声を聞くことほど、心を震わせるものはありません。ぜひ、機会があれば、被災された方々の話を聞いてください。
そして、田老町と同様の悲劇を繰り返さないためにも!

<hiro>

忘れない3.11