ぴっぴの防災ブログ

「災害に備えながら暮らす」が親子の日常になった

2016年3月10日

東日本大震災から5年 今伝えたいこと<3> 

鈴木こずえさん
(認定NPO法人レスキューストックヤード七ヶ浜事務局スタッフ)

ぴっぴ:現在はどんな支援をしていますか。

鈴木さん:宮城県七ヶ浜町の子育て支援センターで月に3回開催する「ポッケの会」のスタッフをしています。これは震災前からずっとあった、親子で過ごせるふれあいの場です。私は結婚して七ヶ浜町に来て、震災当時子どもは3歳と6歳でした。5年経った今も、お母さん同士集まれば震災当時の話題が出ます。「あの時、ああだった」「こんな被害に遭った」などと。七ヶ浜は津波で大きな被害がありましたが、家が流されるような大変な被害に遭った方が、そのときのことについて話してくださることもあります。

七ヶ浜での子育て支援

ぴっぴ:2011年当時、被災した子育て家庭に必要だったのは、まず何だったのでしょうか?

鈴木さん:一番大変だったのは、避難所で子どもが泣いたり騒いだりすると、気が引けて居られなかったことです。皆さん、やはり気が立っていますから、「うるさい」と言われたという話も聞きます。また、障がいのある子どもにとっても、避難所は居られないところでした。避難所の中に、子どもが小さい家庭だけが入れる部屋、その部屋でなら子どもが気兼ねなく騒ぐことができるような場所があれば良かったですね。

物資については、直後は物がなくて困りましたが、数日経つと自治会に支援物資がまとめられ、配られるようになりました。また、畑をやっている方から「大根持って行くか?」と声をかけていただくなど、町の皆さんには良くしていただきました。地域のコミュニケーションがしっかりあったことが、有難かったです。

ぴっぴ:現在、被災地の子どものいる家庭で問題・課題だと思うところがあれば教えてください。

鈴木さん:復興のための工事は今もずっと続いているので、その影響で通学路がしょっちゅう変わります。私たち保護者も通学路の見守り隊をしているのですが、工事箇所が多くて大変です。また、公園がまだ少なく、子どもたちが遊べる場所が無いので、学校の校庭が貴重な遊び場になっています。校庭が使えない学校もあるので、使える校庭には遠くの子どもも親の送迎で遊びに来ています。

ぴっぴ:東日本大震災以降の5年間をふり返り、子育て家庭への支援制度や意識等、変わったことはありますか。

鈴木さん:震災後は町の防災意識がとても高くなり、備蓄倉庫が増えたり、学校の屋根にソーラー発電パネルがついたりと、備えがしっかりしました。親子の普段の会話の中でも「通学路のここで地震に遭ったら、こっちに逃げなさい」などと避難経路について話をするなど、いつも災害のことを意識するようにはなりました。

今も町の電信柱など、あちこちに「津波でここまで水が来た」という目印が残っていて、子どもはそれを見るたび「ここまで水が来たんだね」と言います。この町で暮らしていると、災害のことはずっと忘れませんね。でも、人が温かい七ヶ浜町に暮らせることは喜びです。

鈴木こずえさん(認定NPO法人レスキューストックヤード)

鈴木こずえさん

宮城県多賀城市出身。菖蒲田(しょうぶた)地区在住の町民で、町内の子育て支援ボランティアグループに加入。『小さな子どもを抱える母親の目線から、町のために何かできないか』と、2014年1月から「認定NPO法人レスキューストックヤード」の七ヶ浜事務局スタッフとなった。

※本文中の写真提供:認定NPO法人レスキューストックヤード

<ぴっぴから>

支援物資で生活している不安な時に、人から「大根持って行くか?」と声をかけてもらえるって、被災していろいろなものを失って傷ついた心にしみます。震災後は、被災地以外でも「地域とのつながり」が見直されましたが、5年の年月が経ち、忘れられているようでもどかしく感じます。
地域との関係性が、鈴木さんの七ヶ浜町の暮らしの喜びにつながっているように、私たちも「ぼうさいぴっぴ」という防災講座の中で、今後も訴え続けていきます。被災地では、復興による工事で通学路が変更されたり、子どもたちが思い切り遊べる場所が限られていたりと、まだまだ不自由な生活は続いているようですが、「被災する」ということがその後の生活にどのような影響を及ぼすのか、被害を最小にするための備えと知恵も、合わせて伝えていきたいと思います。

ぴっぴが行っている防災に関する活動や、毎週更新している「ぴっぴの防災ブログ」等も合わせてご覧ください。

<わかば>

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