TOPぴっぴのブログ特集記事クローズアップ「ひと」松本知子さん 浜松市児童発達支援センター根洗学園園長

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松本知子さん 浜松市児童発達支援センター根洗学園園長

障がい者と地域をつなげる橋渡し役

読み聞かせの様子

「障がい者がいても当たり前。真のインクルーシブな社会を目指す」

そう話すのは、知的障がいを持つ子どもたちが通う浜松市児童発達支援センター根洗学園(以降、根洗学園)の園長、松本知子さんです。勤続42年目を迎えた松本さんにこれまで、「障がい」にどう向き合ってきたのかを振り返ってもらいました。

働こうと決めたきっかけは鏡の前でポーズをとる子どもに魅せられたから

松本知子さん

学生の頃、特別支援学校の教師になりたかったという松本さん。しかし、教員採用試験に落ちてしまいました。
どうしようかと迷っていた頃、小学校の教師をしていた父親の知り合いから紹介されたのが、社会福祉法人ひかりの園が運営する根洗学園でした。
ひかりの園は昭和47(1972)年に認可を受け、翌年の昭和48(1973)年には特別養護老人ホームを開設、そして翌年の昭和49(1974)年に根洗学園を開設しています。松本さんは根洗学園が開設されて8年目に就職をしています。

ここで働こうと決めたきっかけは
「学園に行ったらね、子どもが鏡の前でポーズをとっているの。何度も何度も同じことして笑っているの。見ているとおもしろくて。この子、何を楽しんでいるのかな、単純に知りたいなって思ったから」
とのことでした。

障がいに対する考え方を職員から変えること

就職してからの根洗学園での日々は、松本さんにとって楽しかったと言います。通園する親子たちともお互いに慣れて、だんだん大家族になっていくという感じでした。
松本さんは「現在の根洗学園は “発達が気になる子”も含めて通っているけれど、30年以上前は児童相談所が「措置制度(注1)」によって判定した子、つまり障がいがはっきりしている子どもたちが通っていた。当時は根洗学園の外では子どもたちに対するいろんな視線があって、母親たちも本音が出せなかったし、子育てすること・生活することへの困り感はあっても、家族だけ・自分一人が引き受けなければという気持ちが強かったの。でも、子どもたちは根洗学園の中ではみんな、それぞれ自分らしさが出せるのでみんな安心していられた。当時は温室の中にいたのだなあと思う」と言います。

また、
「そこから社会に出るなとひっぱっていたのは職員の私たちだったの。外に出したらつらい思いをさせるのではないかと心配してしまって。今なら、将来を考えて“どう社会に出るか一緒に考えましょう”と言うべきだったのに…。あの時のじぶんたちは未熟だったなと思う」と振り返ります。

保護者たちを応援しながら自身もともに育つ

根洗学園には「親の会」があります。年3回必ず参加することが通園の条件です。「親の会」は主に父親が中心となり保護者が率先して運営しています。

松本さんによると、子どもに障がいがあるとわかった保護者の受容のしかたは2つあると言います。それはやり場のない”怒り”か、なぜ我が家なのか”涙・泣く”か。感情を外に出すことによってやがて沈静化していくのです。
「妊娠中に風邪薬を飲んでしまったのがいけなかった」
「小さい時、障がいを持った子にいじわるをしたからに違いない」
など、現実的ではないあらゆる原因を口に出していくうちに、障がいを持つ子を差別していたのはじぶんなのだと理解します。
いったん障がいを受容した保護者は子どもたちが社会の中で生きられるようにと考え、強くなっていきます。その保護者が進んでいく過程を見守りながら、大家族の一員としての気持ちで、時に応援しながらも松本さん自身、ともに育ってきたと言います。

創設初期から、根洗学園は18歳までの子どもを対象に預かっていました。昭和53(1978)年養護学校の義務化に伴い、児童は学園から学校に移り、平成元(1989)年には幼児部のみの学園となりました。ところが、18歳で卒業してしまうと行き場がなくて、社会に出られない状況でした。そこで、保護者たちが市や市民に働きかけて、法人の中に作業所ができました。また、その後先々、親たちが亡くなっても自立して生きていけるようと、これも保護者の働きかけで入所施設が作られました。当時の親たちが子どものためにと頑張って訴え、運動した成果でした。

アーティストたちとお弁当画用紙を発案

お弁当画用紙

障がいを持っているからできない。そんなことはまったくないことがたくさんあります。
「現代社会において、どう人と関われるか。人とのやりとりのズレが大きいと子どもは健やかに育ちません。それは環境によるため定型発達児(注2)でも同じなの」と言います。
「でも、知的の子は人の話していることに対して深読みしない、素直でずるくないのよ」とにっこり笑って話す松本さん。また、「ふだんの生活においても時間はかかるけれど、着替えやスプーンを持つことだってできるようになるの。何度もやるうちに感覚が身についていくからね」と。

平成20(2008)年、松本さんは根洗学園のふだんの生活以外に、もっと何か子どもたちにバリエーションを持たせたことを見つけられないかと思っていたのだそうです。そんな時、卒園生の保護者の紹介で2人のアーティストが来たのです。
アーティストたちは、子どもたちに教えるという感覚でなく、対等な関係となって一緒に面白がるのですぐに子どもたちと馴染んでいったのだそうです。子どもたちへの働きかけでこんなに変わるのかと分かり、とても新鮮だったと言います。

これまで、母親は子どもとのコミュニケーションを言葉でしたがっていました。アーティストたちのアイデアで子どもが描いた絵が「お弁当画用紙」となり、それを持ち帰って実際にお弁当を作ることにしました。親子のシンプルなコミュニケーションツールでした。母親はなんとか子どもに寄り添おうと、悩みながらも忠実にお弁当を実現しようとします。絵のお弁当から一本線がはみ出ていたら、それをもやしと想像し、わざともやしを1本はみ出させて詰めるというように。以来、おべんとう画用紙は恒例の取り組みとなり、現在は年少さんで行うことにしているそうです。

たくさんの人たちに頼りながら子育てをしてきた

「仕事に夢中になって生きてきた」という松本さん。プライベートでは小学生のときの同級生と結婚して、ふたりの娘さんをもうけたワーキングマザーです。現在はすっかり大きくなって長女は県外で、次女は今も同居しています。ずっと忙しかったので同居の祖父母と夫に子どもたちの面倒をずいぶん見てもらったと言います。多忙な親だからこそ、人を頼るのも上手。子どもの保育園で知り合ったワーキングマザーたちとは子どもたちが小さかった頃は、相互でお泊り会や預け合いをしてきた仲。今でも仲良く付き合っているそうです。

娘さんの幼い頃の思い出話では「娘が小学生の頃、学校で先生に好きな料理を聞かれたときに“おばあちゃんが作る煮っころがし”と答えられて大いにショックを受けた」と言います。
「私だって料理は上手なんだよ」と不服そうに話す松本さん。
「祖母は正当な料理を作る人だけど、私は、そこらにあるものをなんでも入れてしまうから、同じ煮っころがしを作っても、いまだに娘に“お母さんは何を作っているのかわからない!”って言われるのだけどね」

これから目指すこと

これまでの松本さんは、家族や周囲の人々に助けられながら仕事に専念してきました。長いキャリアを経て現在は園長です。最後に、今後、松本さん自身が目指すことを語っていただきました。

「今や、SDGsの目標の中にもインクルーシブ(注3)という言葉が使われています。しかし、障がい者とこれまで交わる文化が少なかった日本の社会。今もどう接していけばよいのか戸惑う人々がいる地域の中で、障がいを持った子どもたちが地域の中で当たり前に過ごせるようにつなげていきたい。園長という役割は、この学園内のベテランというだけではない。地域に出て、小さな単位からつなげていく。それが私の役目かなと思っています」

地域の中で講師やアドバイザーとして日々、忙しく走り回っている松本さん。しばらく続いていきそうです。

取材・執筆/原田 博子

松本知子さん プロフィール

浜松市出身。社会福祉法人ひかりの園 浜松市根洗学園園長
昭和56(1981)年 浜松市根洗学園勤務、平成18(2006)年 根洗学園園長
社会福祉士、言語聴覚士
家族は夫、娘2人、母。趣味は和久洋三氏に傾倒し積み木に夢中。

 

注1 措置制度:子ども自身や保護者の意向ではなく、自治体の判断によって入所を決めるもの
注2 定型発達児:発達障がい児に対して「普通の子ども」を意味する言葉
注3 インクルーシブ:障がいの有無や国籍、年齢、性別などに関係なく、違いを認め合い、共生していくことを目指すこと

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