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震災4年を迎えて メディアが伝える意味
3月中旬に宮城県仙台市を中心に大きな国連世界防災会議がありました。これに伴い、一般の人々が参加できるパブリックフォーラムが開催され参加してきました。こうした会議やイベントが開催され、被災地からの発信というのは大きな役割と意味があります。
東日本大震災が起きてから4年目を迎え、仙台市は一見、何もなかったように東北の大都市として機能していました。しかし、被害にあった人々の苦悩や表面上、何もなかったと思える場所で生活をしている人々の中にも長く引きずった想いがあるのだということを改めて知る機会となりました。
参加したのは、報道シンポジウムでした。当団体も浜松市とともにWebを使って情報を発信しており、大きなメディア企業とは違いながらも、発災後、少なからずできることがあるだろうと考えてみたかったからです。
さて、
想像してみてください。災害が起こると、何が一番に気にかかるか。
まずは、家族の安否と周囲の状況です。当時の大災害時には停電が起き、電話やテレビなど情報をまず、得るものがなくなってしまいました。震災が起きた時刻が昼間であったため、おとなは職場に、子どもたちは学校や保育施設にいました。残っていた人々の多くは自宅にいる高齢者や障がいを持った人、乳幼児親子でした。周囲で何が起こっているのかがわからず、気づかないまま津波が押し寄せ多くの人々が犠牲となってしまった地域もありました。
情報はあの当時、とても重要でした。ネットがつながらなくても、紙媒体が機能したところやラジオが手助けになったところもあります。私たち、ぴっぴではふだんの活動で多くの人たちに伝える手段としてネットだけではなく、時には、紙であったり、映像であったりと様々なものを時と場合に応じて使い分けしています。一つに頼ってしまうとそれが機能しなくなった時の痛手が大きいからです。
今回のパネリストの方々は、新聞社、テレビ、ラジオ放送と多岐にわたっていました。
震災当時の地元新聞社やラジオ局は安否情報や生活情報発信に追われていたと言われます。
それは、地元であること、そして広く発信できるメディアであるからこそできた大切な役割でした。このような時に小回りの効いた情報まで発信できるメディアの役割こそ、地元で発信できる私たちにも少し片棒が担えるのかもしれないと考えました。
パネルディスカッションは、後半、今後の役割についてへと話が移っていきました。パネラーの話は、災害に備えるための「防災の日常化」でした。災害という非日常に備えるための日常をサポートするため、メディアができる地域づくりや知恵を発信していく取組が紹介されました。サバイバルと非常食を掛け合わせた「サバ・メシ」のレシピを一般募集してコンテストを行い、すぐれた作品を掲載したハンドブックの作成や防災・減災に関するワークショップを行うこと(河北新報社は「むすび塾」を行っている)などです。
こうした活動は、2006年よりぴっぴが「子どもを守る防災ネットワーク事業」の中でワークショップや講演を行って来たものと似ていました。
報道シンポジウムとは話が離れてしまいますが、メディアとして、子どもに関わるぴっぴが見逃せないのは、宮城県で大きなシェアを持つ新聞社、河北新報社の“週間 かほピョンこども新聞”でしょう。
http://www.kahoku.co.jp/special/kodomo/
初めは、全国にあるこども新聞と同じ意味合いで始まったであろうものが、2011年の災害を機に、被災地で新聞社が子どもたちに伝えておきたいことを様々な人の目を通して書いています。次代を担っていく子どもたちに、今も続く大変なできごとを時とともに忘れてしまわないように伝え続ける役割があるのかもしれません。
地方のメディアの一端で仕事をする私たちにとって、今回の仙台行は被災をされた人々しかおそらく話せない当時の模様と今後に向けての役割についての話でした。
『復興とは、決して元に戻ることではない。日常に戻すことなのだ。』
現場でこんな言葉をたくさん聞きました。災害はきっとまたどこかでやってくるでしょう。しかし、同じことを繰り返さないために、経験された人々の知恵を借りて備えることです。ですが、悲しいことに、つい私たちは何もないと忘れてしまいがちになります。ぴっぴでは、ふだんからいかに忘れないように伝えるか、を活動の課題として、今後も長くやっていきます。
<Hiro>