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家があるから、支援物資を貰いづらく我慢を強いられた

東日本大震災から5年 今伝えたいこと<1> 

小澤 房子さん
(フリーカメラマン)

ぴっぴ:2011年当時、被災した方々に必要だったのは、まず何だったのでしょうか?

小澤さん:着替え用の衣服、下着、女性用生理用品、ミルクや紙おむつ。

ぴっぴ:現在、問題・課題だと思うところがあれば教えてください。

小澤さん:震災当初の支援物資、ボランティアには心から感謝でした。時と共に支援の形を変えていかなければと…。支援慣れして行く怖さも見てきました。自立するための支援に変えていかなければと感じます。

ぴっぴ:東日本大震災以降の5年間をふり返り、(支援制度や意識等)変わったことがあれば教えてください。

小澤さん:仮設住宅は着の身着のままで生活出来るだけの生活用品が用意され、日本ってすごいなぁっと感心はするものの、仮設に入っていても生活レベルがそれぞれ違います。仮設にいても一定以上の収入のある方もそうでない方も…そして家はあるけど家族を亡くし困窮している方も、被災はしていなくてもひとり暮らしの高齢の方もたくさんいるわけで、すでに5年となれば仮設だけではなく、他の方にも目を向けて欲しいと思うのは私だけでしょうか?

小澤さん自身の撮影による被災地の写真1

震災当初の話になりますが、高台に住んでいる高齢者は家は無事でしたが食料調達が困難!!買い物に行くにも山を越えていかなければならない。高齢の体では無理に等しい状態でした。そして家があっても電気、ガス、水道がストップになっていましたから。家があるからではなく、こうした事態に弱者に対しての対処を事前に決められていた方がいいのではと感じます。

震災直後に支援物資が支給になりました。我が家は家は地震で壊れているものの寝る事だけは出来たけど、被災者や遠方からの手伝いの方のために我が家を宿にしましたので、食料調達に困りました。普段2人で暮らしてるのが、多い時で13人でした。それで食料の支援物資を貰いに行くも「そこの地域は被災してないから」とおもむろに敬遠されました。思うに、避難所で生活している方には3食支給になります。あの時点で食料に困ったのは、家が残っている方たちでした。家があるがために口に出すことすらできない、我慢を強いられるという状況でした。

ぴっぴ:子育て世代についてもわかることがあれば教えてください。

小澤さん:私の経験からの話です!!気仙沼にて孫が3月3日に生まれ、退院してまもなくの震災でした。震災のショックで母親の乳が止まり、生まれたばかりの子と1歳になる子との2人のミルクと紙おむつが足りませんでした。家があるために避難所にも行けず、お店は被災してるので手に入れることは困難な状況!!避難所に貰いに行くも、家がある人には嫌味とも言えるような言葉が返ってきたのだそうです。

私の方から災害対策本部に出向き、気仙沼の娘宅に届けて欲しい旨を伝えたものの、他県には口出しできないと…。県の方に話しても同じ答えでした。緊急の場合は他県とかの垣根を取り外して対応して欲しい!!

結局、携帯がつながった時点で以前から綴ってたブログに投稿し、ミルク、紙おむつの不足を書きました。それを見た名古屋の方がすぐにミルクやら紙おむつ、お尻ふき、トイレットペーパー、水など車いっぱいに詰め込んで遠くから運んでくれました。神様に思えました!!

あの災害で対策本部も大変なことはわかります、手が届かないのも仕方がないのかと…。

小澤さん自身の撮影による被災地の写真2

普段から子供ネットワークなり緊急時の連絡網などがあったならと思います!!私はブログという手段で助けられました!!普段からの備えあれば…は、そうしたネットの繋がり等も備えになると思います!!

小澤 房子さん(フリーカメラマン)

小澤さん

1953年2月生まれ63歳 出身は岩手県上閉伊郡大槌町、現在は釜石市在住 趣味の写真を震災以後は支援として活動。現在はフリーカメラマンとして活動中。 夫、長男の3人暮らし。気仙沼に長女が嫁ぎ、2人の孫がいる。
※写真は、小澤さんがお孫さんに残すためにとご自身で撮影された写真です。


<ぴっぴから>

大槌町に行ったのは2012年。大槌町は最も津波被害が大きい自治体でした。町庁舎は津波被災をして、町長をはじめ、多くの職員の方が亡くなったことを思い出す方もいらっしゃると思います。すでに1年と数ヶ月経ってしまっていたので、町の中心と言うのに瓦礫は片付けられてはいたものの周囲にはほとんど建物が見当たらない状態で被害の大きさに呆然としたのでした。また、JR山田線の大槌駅は駅舎が津波で流出し、微かに残るプラットフォームと線との跡からここに駅があったのだとやっとわかるくらいでした。一面、寂寥感あふれる風景が拡がっていました。

小澤さんと知り合うことになったのは「大槌みらい新聞」(現在、廃刊)に伺った事からのご縁でした。その折、小澤さんの娘さんの話を小耳に挟んだことがきっかけで、ぴっぴでは「つながる支援パック」が検討され、誕生することになります。

詳細はこちら→みんなで作る防災パックプロジェクト

非常時、支援物資は誰の手にも入るとは限りません。小澤さんのお話は特別なことではありませんでした。いざとなった時、公平公正、規則を重視してしまわざるを得ない行政。みなさんはどのように受け止め、こんな時どうしますか?  

<hiro>

「東日本大震災から5年 今伝えたいこと」シリーズ

私たちは忘れない3・11

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